地球環境保護と軍縮運動の巨星が――ハンス=ペーター・デュール博士逝く
ブログ管理人
現在、講演の為にドイツに行っている知り合いの大学教授からメールが入った。ハンス=ペーター・デュール(Hans-Peter Dürr)博士が5月20日にミュンヘンの自宅で家族に見守られながら84歳の生涯を閉じたとの事であった。ドイツのほとんどのマスコミがその死を追悼している。
デュール教授は1929年生まれで、第二次大戦直後はミュンヘンに進駐していた米軍にヒットラーユーゲント(ナチス少年兵)との疑いを掛けられて捕まり、捕虜収容所に収容されると言う経験を持ち、シュトゥットガルト大学を卒業してアメリカに渡り、シカゴ大のエドワード・テラー教授の下で核物理学の博士号を取る。このテラー教授は水爆の父と言われた人で、若きデュール青年は自分の師が水爆の完成を祝っている様子を見て嫌悪し、学位の返上を申しでるが相手にされず、傷心のままドイツに帰国する。しかし、運命の神は粋な事をするもので、テラー教授が紹介してくれた先は皮肉なことにウェルナー・ハイゼンベルグ教授だった。
マックス・プランク研究所内に作られたばかりのハイゼンベルグ研究所で助手として量子力学の研究を始める。ここで、ハイゼンベルグの思想と哲学を皮膚から吸収してゆくことになる。ハイゼンベルグ亡き跡は、後継者としてハイゼンベルグ研究所を任される。
1970年代には平和運動と軍縮運動そして地球環境問題と取り組むようになる。この頃から科学と宗教の関係を模索するようになる。ローマクラブの会員となってからドイツの科学者を組織した平和運動グループ「ダビデとゴリアテ」の中心的存在となる。
この間、科学者の軍縮運動体パグウオッシュのリーダーとして、当時のソ連の首脳部に足しげく通い、核兵器の放棄、軍縮とりわけアメリカ・レーガン政権が進めていたスターウォーズ計画の挑発に乗せられることが無いようにと説得を続けた。継続して説得の甲斐あってゴルバチョフ書記長がそれを聞き入れ、軍部の反対を抑えてソ連は軍縮に踏み切った。この功績によりパグウオッシュ会議はノーベル平和賞を受ける。デュール博士ももう一つのノーベル賞と言われるライト・ライブリフッド賞を受賞する。その後も、独特の風貌と話術で聴衆を魅了する平和論、環境論を世界各地で講演して回った。
ブログ管理人は、2013年3月にデュール博士を河口湖に案内すると言う幸運に授かった。河口湖畔を二人だけで散歩しながら1時間以上にわたって、ハイゼンベルグの思考方法などを聞くことができた。ハイゼンベルグは対話の力を信じていたと言う。思考に行き詰ると、デュールを呼び話しかけ小一時間議論をするという。そして、このテーマについては又何日かして話そうと言って別れる。次に会った時にはお互いに自分なりの考えが纏まっており、議論は大きく進展すると言う。対話は自分も気が付かなかった自分の持っている能力を引き出す力が有り、それを発言する勇気も与えてくれると、こんな話であった。
この後ブログ管理人は、ハイゼンベルグの「部分と全体」を読み、さらにハイゼンベルグが身近なものに感じる事ができ、河口湖畔をハイゼンベルグと歩いたような錯覚を覚えた。そのデュール博士が逝ってしまった。ご冥福を心からお祈りする。 |